□創価学会員、法華講員、顕正会員の信仰活動は大衆文化として根づいているとは言い難い

 

それでは「創価学会、日蓮正宗、顕正会だけが勤行・折伏・教学研鑽を行い日々の実践に活かす生きた宗教である」「創価学会、日蓮正宗、顕正会だけが生きた宗教、他は全て死せる宗教」という批判はどうだろうか。これもとんでもない独善思想の極み、仏教蔑視以外の何物でもない。そもそも創価学会、日蓮正宗、顕正会だけが活きた宗教であるという根拠は、創価学会、日蓮正宗、顕正会に言わせれば、創価学会員、法華講員、顕正会員は日々勤行している、唱題している、折伏している、教学を研鑽していると胸を張る。しかし実際には創価学会員法華講員、顕正会員は日々の勤行などサボりまくり、休みまくりである。特に早朝出勤の朝の勤行に至っては壊滅状態。又、創価学会員法華講員、顕正会員は唱題していると言うが、それだったら日蓮宗信徒も唱題するし、法華宗信徒も唱題している。それから創価学会員、法華講員、顕正会員の強引・執拗な折伏は、社会に貢献どころか、迷惑千万な人権侵害行為の何物でもない。

仏教教学を研鑽しているのは、何も日蓮正宗僧、創価学会員、法華講員、顕正会員だけではない。仏教各派各宗派の僧侶は言うに及ばず、信徒の人たちでも教学研鑽している人はたくさんいる。例えば日蓮宗現代宗教研究所の教学研究発表大会には、僧侶のみならず、多くの在家・信徒の人たちが登壇して発表している。

創価学会員、法華講員、顕正会員は「他宗派の信徒は勤行をしない」と言うが、創価学会員、法華講員、顕正会員は実際は勤行をサボりまくっているのに、人前ではあたかも欠かさず勤行をしているかのような顔をしているだけのこと。他宗派の人たちは、ありのままに振る舞っているだけのこと。つまり創価学会員、法華講員、顕正会員はウソをつくのがうまいだけのことではないか。

創価学会員、法華講員、顕正会員たちは仏教宗派を「葬式仏教」「死せる宗教」と酷評するが、創価学会員、法華講員、顕正会員自らの信仰活動は、とてもそんなことを言える状態ではない。創価学会員、法華講員、顕正会員の信仰活動は大衆文化として根づいているものとは言い難い。

仏教信仰が大衆文化として定着しているかどうかの例証を挙げよう。東京池上の池上本門寺御会式には3日間で約35万人の参詣がある。2009年の長野善光寺御開帳では57日間で約673万人の参詣があった。江戸時代の両国回向院での善光寺出開帳では60日間で何と約1600万人もの参詣があった記録が残る。初詣でも成田山新勝寺や川崎大師平間寺では約300万人の参詣がある。こう言うと創価学会では新年勤行で数百万人の参詣があると胸を張る。この数字の信憑性から問われなくてはならない所だが、百歩譲ってこれが事実だとしても、これは全国数十ヶ所以上に散在している創価学会会館での新年勤行参詣の累計であって、一カ所の参詣者数ではない。東京・信濃町の創価学会本部の新年勤行に数百万人の創価学会員が参詣しているのか。そんな姿は、誰一人見聞していない。

 

2015-6
 

(57日間で約673万人の参詣があった長野善光寺御開帳)

 

 

□数百年の歴史がある身延山久遠寺、池上本門寺等の万灯練り供養が庶民に根ざす文化だ

 

こう言うと「創価学会の文化祭では創価学会員が躍動して参加している」などと反論してくるが、かつて創価学会では全国規模で文化祭を行っていた時代があったが、近年はほとんど行っていない。文化祭も創価学会の定例行事としても定着していない。第一回○○青年文化祭だの第一回△△平和音楽祭だのと銘打って盛大な文化祭を挙行したものの、第一回で終わってしまった文化祭がいくつもある。私に言わせれば、創価学会の文化祭参加者の表情よりも、身延山久遠寺、池上本門寺、大坊本行寺、中山法華経寺の御会式、片瀬龍口寺の御難会の万灯練り供養に参加する人たちの表情のほうが活き活きとしているように見える。もちろんこれら御会式や御難会の万灯練り供養は数百年前から毎年欠かさずつづいている行事であり、第一回だけ行って終わってしまった行事でもなければ、数年に1回とか数十年に1回行われている行事ではない。しかも若い人だけでなく、老若男女、小中学生、高校生、大学生、老人、主婦、妊婦さんまでが参加する万灯練り供養の行列。創価学会は文化祭が庶民に根ざす文化だと胸を張るが、私に言わせれば、第一回だけ行って終わってしまった文化祭、数年に1回とか数十年に1回行われている文化祭よりも、数百年の歴史がある万灯練り供養のほうが庶民に根ざす文化だと思う。これだけ数百年の長きにわたって大衆に信仰が根ざした身延山久遠寺、池上本門寺、中山法華経寺等々の古刹寺院、伝統仏教寺院がどうして「葬式仏教」だと言えようか。こんなものは創価学会の単なる偏見であり、伝統仏教各宗派を何としても見下そうとする蔑視である。

そうすると創価学会は伝統仏教各宗派との差を見せつけようとして「創価学会は池田大作先生を先頭にして世界平和の活動を行っている」「池田SGI会長平和行動展を行っている」「池田先生は世界の著名人、指導者と対話する平和行動を行っている」等々と言う。池田大作の世界の著名人、指導者と対話することや創価学会の活動が世界平和の活動だと本気で思っているのは、創価学会員だけなのではないだろうか。おまけに池田大作がノーベル平和賞をもらえるのではないかと本気で信じ込んでいる創価学会員には、全く吹き出してしまう。そもそも世界各国の政治家や著名人と会見したことを以て世界平和活動だと言う創価学会という団体が、いかに自己中心的体質、独善的体質であるかを物語って余りあると言えよう。日蓮正宗は大石寺法主が毎朝2時半から客殿で丑寅勤行を行い世界平和を祈念しているからと云い、あたかも世界中で大石寺法主唯一人だけが世界平和を祈念しているかのような言い方をするが、全く失笑ものである。「世界平和」というのは、なにも日蓮正宗や創価学会のカルト宗教の専売特許なのではないのである。かつて大島渚氏が「朝まで生テレビ」に出演して元気に発言していた頃、こんな発言をしたことがあった。

「まともな宗教というものは、全く面白くもなんともないものだ」

これは言い得て妙ではないかと思う。創価学会、法華講、顕正会等「日蓮正宗系」が面白くもなく魅力も何もない「葬式仏教」と見下す伝統仏教は、大島渚氏の言い方を借りれば、逆に「まともな宗教」ということになるが、いかがだろうか。

 

 

御会式115万灯大堂前
 

(池上本門寺御会式の万灯練り供養の行列)