□勤行も定着しない創価学会が仏教を大衆文化に定着させた仏教宗派を批判しても説得力ゼロ

 

これも「日蓮正宗系以外は全て葬式仏教だ」とよく似た誹謗中傷である。特にこれを言いたがるのが創価学会員であり顕正会員。そして元創価学会員、元顕正会員。最近は法華講員も言い始めていて、これまた日蓮正宗系共通の悪弊・弊害と化している。「腐敗している」と聞くと、何も知らない人たちは、日本の仏教宗派は不正なリベートを受け取ったり、経済犯罪でも犯しているかのように誤解してしまうところだ。ところが創価学会員、顕正会員、法華講員が「日本の仏教宗派は腐敗している」と非難しているのは、そういうことを言っているのではない。何を指しているのかというと、仏教僧の妻帯、仏教寺院に賽銭箱を置いていることを指しているから、「何だそりゃ」と呆れてしまう。創価学会員の場合を見てみよう。彼らはよほど日本の伝統仏教や僧侶が気にくわないらしく、伝統仏教批判の題材として、すぐに取り上げたがるのが仏教僧の妻帯。創価学会員らに言わせれば、釈迦如来は仏典で不邪淫戒を説いているのに、仏教僧は女犯妻帯しているから、これは腐敗だ、というもの。部外者の私が聞いても(?)と思ってしまう創価学会員の言い分である。

私自身は、仏典に不邪淫戒が説かれていたとしても、仏教僧は生涯独身でなければならないとは思っていないし、仏教僧が妻帯しているから破戒僧とも思わない。また生涯独身の仏教僧がいても、それだけの理由で立派な聖僧だとも思わない。聖僧か破戒僧かの分岐点は、妻帯しているかどうかではないと考える。私も仏教宗派の僧侶と話しをする機会がいろいろあるが、僧侶の中身はそんな単純なものではない。僧侶の妻帯=腐敗だとは思わないし、僧侶が妻帯しようが子どもをもうけようが自由にしたらいいと思う。ただ、私は同時に、こういう僧侶の妻帯の是非を論ずる議論そのものが、あまり生産的ではないしナンセンスだとも思っている。「アンチ日蓮正宗」「Icat-Cult(国際カルト宗教対策委員会)」はこういう点について、どう考えるのか、という質問をよく受けるので、答えざるを得ないのが実情である。

明治維新によって僧侶の妻帯が公認される以前、鎌倉時代の古から浄土真宗では親鸞以来、僧侶は公然と妻帯し、子どもをもうけていた。東西本願寺歴代門首(法主)は、宗祖親鸞以来の直系の血筋を引く子孫である。僧侶の女犯を厳しく取り締まった江戸幕府ですら、浄土真宗は例外として浄土真宗僧の女犯妻帯を公認していた。また飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町時代においても、表向きは仏教僧は不邪淫戒を保っていることになっていたが、実際は女犯をしている僧侶は多数いたばかりではない。女犯は仏典の教えに背くということで男色(男性同性愛)に走る僧侶もいた。

あるいはこんなことを言う人もいる。仏教僧で妻帯しているのは日本の僧侶ぐらいなもので、東南アジアや中国、韓国の仏教僧は独身である。あるいはキリスト教、イスラム教の聖職者は独身である、という人がいる。私はここで外国の僧侶が妻帯しているか独身かを論ずる気はない。しかし仮に外国の僧侶が独身だったとしても、日本の仏教僧が妻帯しているのは、おかしいとはならない。それは、宗教がどういう形で大衆文化に定着しているかを見るべきである。東南アジアの仏教僧は独身、日本の仏教僧は妻帯する文化として定着しているのであり、どちらが正解で、どちらが間違っているなどと言うこと自体が間違いであり、ナンセンスで非生産的である。

 

 

 

 

□創価学会本部職員等の実質的「有髪の僧侶」が妻帯したまま仏教僧の妻帯を批判しても説得力はゼロ

 

「日蓮正宗系」団体では、いわゆる「日蓮本仏義」を立てて、釈迦如来のことを「釈迦」と下す言い方をし、「釈迦仏法」は末法に入って白法隠没などと言っていながら、仏教宗派を見下すためには、白法隠没したはずの仏典を平気で引っ張り出そうとする創価学会員。彼ら創価学会員たちは、これを矛盾だとは思っていないようなのである。創価学会本部に勤務する本部職員は、実質的な「有髪の僧侶」と言えるが、この人たちの大半は、創価学会幹部の紹介で結婚し妻帯している。出家僧侶の女犯妻帯はダメで、創価学会の「有髪の僧侶」は女犯妻帯はOKなのか。そもそも世間の常識に照らせば、他の女犯妻帯を非難しようとするならば、まず自分が生涯独身・不邪淫戒を保持して、はじめて説得力をもつものだ。ところが創価学会の場合は、トップの池田大作、本部職員から末端の幹部まで、悉く女犯妻帯していながら、他宗派僧侶の女犯妻帯を非難しているわけだから、全く説得力を持たない。こんなものを喜んで聞いているのは創価学会員だけだろう。

そもそも創価学会員たちが仏教僧侶の女犯妻帯を非難し始めたのは、1990(平成2)年の「1116」スピーチのころからだが、あれから20年以上がたち、仏教僧侶の妻帯批判が創価学会員たちの間に浸透してきている。そればかりではない。創価学会員たけではなく、長年、創価学会に在籍した後に脱会した元創価学会員までもが、蝕まれているのが現実である。

元創価学会員の富士門流執着軍団でも、仏教僧侶腐敗・妻帯批判している者がいる。この者は大石寺のみならず、日蓮宗が気にくわないと見るや、創価学会の悪弊そのもので、日蓮宗が腐敗しているだの妻帯しているだのとやり玉に挙げ、非難中傷する。呆れてしまいますね。僧侶批判の伝家の宝刀として、妻帯批判を持ち出してくるわけだから、よほど創価学会の中で僧侶の妻帯批判を叩き込まれ、骨の髄まで染みこんでいる様子。まことにお気の毒の極みである。

さらに富士門流執着軍団の場合は、日蓮宗現代宗教研究所の教学研究発表大会で発表し、これを書籍化して自主出版した者までいるのに、日蓮宗が気にくわないと見るや、今度は日蓮宗僧侶の妻帯批判をはじめるわけだから、その短絡さ、忘恩ぶりには呆れ果ててしまう。

私は宗教がどういう姿・形で大衆文化として定着しているのかを根本として見るべきだと言っているのであって、仏典・経典に書いてあることを根本にすべきではないし、東南アジアの仏教僧やキリスト教、イスラム教の聖職者の姿・形を根本にすべきではないと言っているのである。私に言わせれば、創価学会本部に勤務する本部職員等の実質的な「有髪の僧侶」が悉く妻帯したまま、仏教僧の妻帯を批判したところで、説得力はゼロである。勤行も文化祭も自分たちの行事としてすら定着させることができない創価学会が、約2ヶ月の善光寺御開帳で約650万人、3日間の池上本門寺御会式で約35万人、初詣で約300万人の参詣がある成田山新勝寺、年間参詣が約3000万人ある浅草寺等々、これだけ大衆文化として定着させている仏教宗派を批判しても説得力はゼロである。むしろ創価学会員や富士門流執着軍団ら元創価学会員たちは、平身低頭、頭を丸めて仏教宗派に修学に行くべきだと思うが、どうだろうか。

 

御会式115万灯大堂前
 

 

(池上本門寺御会式の万灯練り供養の行列)