□全く予想していなかった凄まじい強引・執拗な勧誘の嵐との戦いから始まった英昭彦の学生生活

 

当ブログに連載している「隣の創価学会員・法華講員」は、英昭彦が、1980(昭和55)年ころから、創価学会員、顕正会員、法華講員、日蓮正宗僧侶たちの強引・執拗な勧誘・折伏や非常識な振る舞いなどに、いかに苦しめられてきたか、そして、それらの創価学会員、顕正会員、法華講員、日蓮正宗僧侶たちと、どう闘ってきたかを記した日記である。登場人物名は、英昭彦、創価学会会長、理事長、副会長、日蓮正宗大石寺法主、僧侶以外は、すべて仮名です!

創価学会の強引・執拗な勧誘・折伏問題の根源の人物である池田大作が執筆した(?)小説「人間革命」の書き出しは、「戦争ほど悲惨なものはない」というものらしいが、長年、創価学会員、顕正会員、法華講員、日蓮正宗僧侶たちの強引・執拗な勧誘・折伏や非常識な言動による甚大な被害を受け、悩まされてきた英昭彦からすれば、創価学会、顕正会、日蓮正宗こそ「悲惨」を生み出してきた元凶に他ならない!したがって、英昭彦からすれば、「創価学会ほど悲惨なものはない」「顕正会ほど悲惨な宗教はない」「日蓮正宗ほど悲惨な宗教はない」と叫びたい心境である。

英昭彦と創価学会の遭遇の最初は、1980(昭和55)年にまで、さかのぼる!当時の英昭彦はまだ、うら若き(?)大学一年生であった。あの当時は、もちろん1991年の日蓮正宗と創価学会の宗教戦争、いわゆる「宗創戦争」の前であり、日蓮正宗と創価学会は和合路線を歩んでいた宗創和合時代のことである。しかし宗創和合時代ではあったが、創価学会の昭和五十二年路線の第一次宗創紛争のあとで、宗創関係は、ぎくしゃくしていた時代。創価学会の折伏大進撃は、1970(昭和45)年の言論問題でストップがかかったとはいうものの、創価学会の強引・執拗な折伏のパワー、エネルギーは、まだまだ凄まじいものがありました。

1970年代~1980年代といえば、創価学会、顕正会、日蓮正宗の強引・執拗な勧誘・折伏のみならず、ネズミ講、ネットワークビジネス、マルチ商法、街頭のキャッチセールス等々の「セールス商法」がすさまじかった時代のこと。ネズミ講を禁止する「無限連鎖講防止法」が197811月にようやく、国会で可決、公布され、内村健一による天下一家の会が破綻したのが1980年のこと。

マルチ商法を規制する「特定商取引法」は、1976年に国会で可決、成立、公布されたが、マルチ商法規制そのものは、今のように厳しいものではなく、抜け穴だらけの法律。個人情報保護法もなく、卒業アルバム、社員名簿、顧客名簿といった個人情報が、半ば「公然と」、「裏ヤミ市場」で売買されていた時代である。英昭彦は、T大学入学直後、学生課の紹介で、大学キャンパスからほど近い所に、4畳半一間のアパートを借りた。場所はT鉄道T線の線路際にあったアパートである。しかし、その3日後、どこから聞きつけてきたのか、英会話テープのセールスマンが訪問販売にやってきた。大学の入学式の日に、大学のキャンパスの中に入っていくと、入った瞬間から、「○○クラブに入りませんか」「△△部に入りませんか」と、これまたあっちからもこっちからも、部活動・クラブ活動の勧誘の嵐である。英昭彦の学生生活は、全く予想していなかった凄まじい強引・執拗な勧誘の嵐との戦いから始まった。

 

霞ヶ関駅下宿近辺4


霞ヶ関駅下宿近辺3
 

(T大学キャンパスからほど近い所に借りた当時のアパートがあったあたり。当時のアパートは、今は取り壊されていて存在していない)

 

 

 

□だまし討ちで全世帯が創価学会員に占拠されていたアパートに誘いこもうとした創価学会員

 

石川県から東京に出てきたばかりの英昭彦は、当初は予想外の勧誘攻撃の嵐に、対抗できる術を全く以ておらず、「英会話が上達できる」と言われて「英会話クラブ」に入ったり、「あっちこっちに旅行に行ける」と言われて「歴史研究会」に入ったり、「テレビにでられるよ」と言われて「演劇クラブ」に入ったり、「たくましい肉体美になれる」と言われて、「ボディビルクラブ」に入ったりしていた。これらの部やクラブは、大学公認の部・クラブだとばかり思っていた所、大学非公認のクラブや、大学横断型のクラブまであった。かくしていろいろな部やクラブに入ったものの、ボディビルクラブは、トレーニングをはじめて数ヶ月で肉離れ、腰痛を起こしてリタイアし退部。「英会話クラブ」は、英会話を上達させる方法として、海外留学を斡旋していることがわかり、海外留学の資金がない英昭彦はあっさり退部。旅行に行けるはずだった「歴史研究会」は、旅費が全て自腹で払わなくてはならないことがわかり、旅費が出せなかった英昭彦は退部。「テレビに出られる」はずの「演劇クラブ」は、いつきーまでたっても舞台演劇の稽古ばかりで、テレビの話しは全く来ない。そんなことが1年以上もつづき、一つのテレビ出演(??)の話しが来ないまま退部した。後に、あっちこっちの劇団に入るきっかけになったのは、この時の「演劇クラブ」が最初である。

アパートに訪問販売にきた英会話テープのほうは、断り切れなくなり、40万相当の英会話テープの山のようなセットを、分割払いでの購入契約にサイン。ところが、バイト先もろくに決まっていない学生が、分割払いがつづくわけがない。支払いはあっさりダウン。そこで契約を解除しようとしたが、テープを売ったほうは、「契約解除はできない」の一点張り。「テープの代金を支払え」との督促がきたが、バイト先も決まらない学生に、テープ代を支払う資力はない。これは、英会話テープの山を全て業者に返還し、契約を解除することで一件落着となった。

大学生活そのものは、4月の富士急ハイランドでの「研修旅行」にはじまり、それなりの友人ができたが、当初のころは、創価学会員も顕正会員も法華講員もいなかった。T大学の同じゼミ(1年・2年はチュートと呼んでいた)の友人に矢田敏夫(仮名)というのがいたが、富士急ハイランドの旅行では、全く接触がなかった。当時の英昭彦は、矢田が創価学会員だとは全く知らず、創価学会に対する認識も、ほとんどないに等しかった。

矢田敏夫(仮名)とはじめて話をしたのは、チュートの中ではなく、英昭彦がキャンパスを歩いていたとき、狂信的創価学会員であった新井健(仮名)、川端哲也(仮名)と遭遇した時。矢田敏夫(仮名)は、新井健(仮名)、川端哲也(仮名)といっしょで、熱心な新井健(仮名)がやたら宗教問題について、話しかけてきた。「面倒な話題だな」と思って聞いていたところ、矢田敏夫(仮名)が「キミ、ボクと同じチュートだね」などと言いだし、自分が住んでいるアパートも東京・豊島区池袋にあるということで、「遊びに来ないか」と、誘ってきた。当時の英昭彦は、SK市に住んでいて、「東京のアパートに住んでみたい」と思っていた英昭彦は、この時、うかつにも、まんまと矢田敏夫(仮名)のワナにはまってしまった。矢田敏夫(仮名)は、全世帯が創価学会員に占拠されていた和泉荘(仮名)に英昭彦を誘いこみ、創価学会に勧誘する腹づもりでいたのである。いわば「だまし討ち折伏」であった。

 

国際商科大学2


国際商科大学1
 

(英昭彦が在学していた当時のT大学キャンパス・卒業アルバムより)