□「本物の正しい宗教を探す」とか「本物の正統門家を探す」ということは意味がないことである

 

創価学会、法華講、顕正会、正信会等の「日蓮正宗系」団体の信者の中には、純粋な動機、自らの求道心でコツコツと教学を学んだり、全国各地の寺院に参詣したり、さまざまな僧侶の話を聞いたりしている人がいる。それで自分でいろいろと取り組んでいく中で、日蓮正宗大石寺を筆頭とする「日蓮正宗系」の教義、本尊、教学、指導性、体質はおかしいということに気づき、「日蓮正宗系」の信仰を棄てる人がいる。こういった人は、自ら道を求めて「日蓮正宗系」を棄てて、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、冨士門流以外の日蓮宗、法華宗等の伝統仏教に入る人が多い。今まで「アンチ日蓮正宗」「Icat-Cult」管理人が見聞した中で、「日蓮正宗系」の悪弊・弊害から脱出・蘇生が最もうまくいっているのは、このパターンで「日蓮正宗系」を離檀・脱会した人です。ただし、誤解の無いように一言だけ附言しておくと、このパターンで「日蓮正宗系」を離檀・脱会した人が、全員、「日蓮正宗系」の悪弊・弊害から脱出・蘇生がうまくいっていると言っているのではない。

又、「日蓮正宗系」の悪弊・弊害から脱出・蘇生がうまくいっている人も、一朝一夕にそれができたわけではなく、様々な紆余屈折があったと聞いている。決して平坦な道を歩まれたわけではないのである。求道心で「日蓮正宗系」信仰を棄てた人でも、超えてきたヤマがいくつかあるようである。そのひとつが「本物の信仰探し」のヤマである。これはどういうことか。

日蓮正宗、創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」団体では、「日蓮正宗は絶対正しい宗教」「創価学会は絶対正しい」「大石寺は唯一正統門家」等という言い方で、自分たちの団体、「日蓮正宗系」を正統化している。それで「日蓮正宗系の信仰は間違っている」「詐欺宗教だ」ということがわかると、「それでは、どこが正しい宗教なのか」「どこかに正しい宗教があるはず」と、「本物の宗教探し」をはじめる人がいる。ここで注意しなければならないのは、全国各地の寺院に参詣・巡礼し、僧侶の話を聞いたり、史料をもらったりして研鑽することは、決して間違ったことではないが、「どこかに正しい宗教があるはず」と、「本物の宗教探し」をするのは、正しい方向性ではない。

むしろ「本物の宗教は何か」というのは、「アンチ日蓮正宗」が「戒壇の大本尊偽作説」「二箇相承偽作説」「血脈相承偽作説」で論破し、反論不能になったカルト法華講員や創価学会員が言い出すセリフである。そもそも「正しい宗教」だの「唯一正統門家」などということは、日蓮正宗、創価学会、顕正会等の「日蓮正宗系」団体が勝手に言っているだけのことで、「正しい宗教」や「唯一正統門家」などというものが、本当に実在しているわけではない。だから、「本物の正しい宗教を探す」とか「本物の正統門家を探す」ということは、意味のないことと言えよう。

「本物の宗教探し」は意味のないことであるが、純粋な動機、自らの求道心でコツコツと教学を学んだり、全国各地の寺院に参詣したり、さまざまな僧侶の話を聞いて、「日蓮正宗系」団体から離檀・脱会し、「日蓮正宗系」の信仰を棄てた人に提案したいことがある。

 

 

 

 

 

□一度は日蓮信仰から離れてニュートラル・中立な立場で仏教・宗教を見つめ直すことから始まる

 

創価学会、法華講、顕正会、正信会等の「日蓮正宗系」団体に長くいた人が、ニュートラルな立場になるということが、なかなかむずかしいようである。特に子どもの頃から「日蓮正宗系」団体の信者だった人が、ニュートラルに物を見ることが、むずかしい傾向にある。ニュートラルとは

「1 いずれにも片寄らないさま。中立的。中間的。「―な物の見方」

2 自動車などで、ギアがかみ合わず動力が伝達されない状態。」

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/168346/m0u/

「中立」とは国語辞典によれば

「1 対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。 2 戦争に参加しない国の国際法上の地位。交戦国双方に対して公平と無援助とを原則とする。局外中立。『永世―』」

http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E4%B8%AD%E7%AB%8B

ニュートラルとか中立とか、言葉ではたやすく口にできるが、実際にどうしたら、ニュートラルとか中立になるのか。ニュートラル・中立の障害になるのが、日蓮・日興の虚像への執着、富士門流への執着、四箇の格言への執着である。これが具体的にどういう形で顕れるのかというと、「日蓮正宗系」の信仰を棄てて、全国各地の寺院巡り、巡礼には歩くが、決して浄土宗、浄土真宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、律宗の寺院には行こうとしない。関東には川崎大師や成田山などの有名寺院があるので、これらには行くが、絶対に行こうとしないのが浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗の寺院である。「オレは浄土真宗は嫌いだ」とか「そこは札所の寺院には入っていない」等々の理由を付けて浄土宗、浄土真宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、律宗の寺院に行くのを拒もうとする。

しかしこれは本当の理由ではない。本当の理由は「念仏無間、真言亡国、禅天魔、律国賊」の四箇の格言への執着、日蓮・日興の虚像への執着、富士門流への執着である。中でも日蓮が「念仏無間」と言った浄土宗、浄土真宗寺院への拒否感が最も大きい。では、どうすればいいのか。

浄土宗、浄土真宗寺院へ行って阿弥陀如来を礼拝。真言宗寺院へ行って護摩祈祷をやってもらってお札をもらってくる。曹洞宗、臨済宗の寺院で座禅を組む。これでようやく「四箇の格言」を棄てたことになるのではないか。「オレは四箇の格言は棄てた」「日蓮信仰は棄てた」と言葉では言っても、体が浄土宗、浄土真宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、律宗の寺院を拒否しているのは、四箇の格言への執着、日蓮・日興の虚像への執着、富士門流への執着が残っているということではなかろうか。私は無宗教で、どこの宗派にも属していないが、無宗教をベースにして、浄土宗、浄土真宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、律宗から天台宗、日蓮宗、法華宗、富士門流の寺院まで、----日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会以外の----どこの寺院でも参詣するし、-----日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の宗教施設以外の----どこの寺院に行っても違和感も拒否感も全くない。ニュートラルな立場とか中立の立場とは、こういうことを言うと思うのだが、いかがだろうか。

 

法然御廟5


法然御廟11
 

(浄土宗総本山・知恩院法然御廟)

 

御影堂6
 

(浄土真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺御影堂)

 

奥の院16
 

(高野山金剛峯寺・奥の院)