□宗教界は「正しい宗教」「間違った宗教」で成り立っていると錯覚している日蓮正宗系の信者

 

日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の悪弊・弊害の第一番目に「無宗教を知らない」という項目を挙げた。これて行くと「じゃあ日蓮正宗系の信者は宗教は知っているのか」とアンチの皆さんに反問されてしまいそうだが、これは「日蓮正宗系の信者は無宗教は知らないが宗教は知っている」という意味ではない。日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の信者たちと議論をして、大石寺の「戒壇の大本尊」「二箇相承」「日興跡条条事」「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」が日蓮真造ではなく後世の偽作だと指摘すると、彼らは「じゃあ、どの宗教が正しい宗教なのか」「どれが本物の宗教なのか」「他宗で成仏できるのか」「他宗で幸せになれるのか」「無宗教でガンが治るのか」等々と言ってくる。つまり日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の信者たちの宗教観は、「自分たちだけが正しい宗教で、他は全て邪宗・邪教」という、独善的な宗教観に凝り固まっている。というか、そういう独善的・排他的宗教観を徹底的に洗脳教育されてしまっている。そういう独善的・排他的宗教観しか頭の中にない。そうすると「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会(略名・アンチ日蓮正宗)」から、大石寺の「戒壇の大本尊」「二箇相承」「日興跡条条事」「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」が日蓮真造ではなく後世の偽作だと指摘されると、今まで自分たちが信仰してきた日蓮正宗、創価学会ないしは顕正会、正信会といった日蓮正宗系が、「間違った宗教」の部類に入ってしまう。そうすると「じゃあ、どの宗教が正しい宗教なのか」「どれが本物の宗教なのか」とこうなる。日蓮正宗系の信者たちは、日本の宗教界のみならず世界の宗教界は「正しい宗教」と「間違った宗教」で成り立っていると錯覚しているらしい。これは「正しい宗教」と「間違った宗教」という日蓮正宗系の洗脳教育から抜け出していないだけのことなのだが、これは裏を返せば、日蓮正宗系の信者は、「無宗教を知らない」だけにとどまらず、「宗教をも知らない」ということを、はからずしも露呈していることになる。日蓮正宗系の信者たちは、自分たちが「唯一正統門家」の宗教を行じて、世間で一番宗教を知っているつもりらしいが、実は彼らこそ宗教を知らないとしか思えない。この「宗教を知らない」「世界の宗教界は『正しい宗教』と『間違った宗教』で成り立っている」という日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の悪弊・弊害は、これら日蓮正宗系宗教団体から離檀・脱会・離宗した人をも蝕んでいる。どういうことかというと、「日蓮正宗系は間違っている」ということで、日蓮正宗系から離檀・脱会した人は、日蓮正宗系が、「間違った宗教」の部類に入ってしまう。そうすると「じゃあ、どの宗教が正しい宗教なのか」「どれが本物の宗教なのか」ということで、「正しい宗教探し」「本物の宗教探し」をはじめるわけである。こういう人が行き着く先は、日蓮正宗に入っていない冨士門流寺院が多い。つまり北山本門寺、西山本門寺、伊豆実成寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、京都要法寺といった宗派・寺院である。世界の宗教界は「正しい宗教」と「間違った宗教」で成り立っているとの錯覚から、今度は「どこかに本物の宗教、正しい宗教がある」という宗教観に埋没してしまっているのである。

要法寺1本堂1


保田妙本寺1


西山本門寺28客殿


北山本門寺5


伊豆実成寺18黒門
 

(日蓮正宗に入っていない冨士門流寺院)

 

 

5時間唱題で病気を治すとか血脈が切れたから地獄に堕ちるとかが宗教の役回りではない

 

この宗教観に埋没してしまいがちな離檀・脱会のパターンを見ると、創価学会→日蓮正宗→離檀、ないしは顕正会→日蓮正宗→離檀というふうに、どこからか日蓮正宗に行き着いて離檀するパターン。そして日蓮正宗から離檀して冨士門流寺院の信者になった後も、体験発表をしておられるのですが、相変わらず「やっと本物の宗教に巡り会えた」「やっと本当の宗教に巡り会えた」「私は遠回りをしてしまった」という主旨のことを言っておられる。残念ながら、この方は、日蓮正宗系団体の「正しい宗教」と「間違った宗教」という洗脳教育から抜け出していないと思われる。こういう人がみなさん、「どこかに本物の宗教、正しい宗教がある」という宗教観に埋没してしまっていると言っているのではありません。「正しい宗教探し」「本物の宗教探し」がきっかけになって、日本の仏教界のさまざまな宗派の寺院を訪ね歩き、あるいは中外日報をはじめ、さまざまな新聞や資料を読んでいく中で、日蓮正宗系の洗脳教育や独善的宗教観を捨て去るに至る方もいらっしゃいます。そうなれば、まことに幸甚なことと言えましょう。

日蓮正宗系団体の信者の方のみならず、元信者の方にも一度、冷静になってお考えいただきたいことがある。それは、少なくとも日蓮正宗系が言うように、大石寺の「戒壇の大本尊」を信じるとか信じないとか、あるいは血脈相承が通っているとか、血脈が切れたとか切れないとか、あるいは○○先生がこれだけ広宣流布に挺身したから正しいとか謗法だとか、そんな日蓮正宗系の物差しで測るものではないということである。宗教とは心の問題とか、心のケアの問題とか言われますが、少なくとも血脈があるとかないとか、「戒壇の大本尊」を拝んだからお金持ちになれるとか、ガンが治るとか、そういうことが宗教の本義ではないはずだ。

たしかに科学や医療、医学が発達していなかった上古の昔、近代化以前の昔は、人が重い病から回復しようとして宗教にすがった時代があったのかもしれない。あるいは貧困、疫病、戦争、飢饉等に苦しんだ人たちが、宗教にすがった時代があったのかもしれない。しかしそれは、そういう時代だった、人がそうせざるをえなかった時代だったということではないのだろうか。

しかし産業革命等を経て近代に入り、日本でも19世紀以降、人々の生活は近代化され、一般大衆が病気治癒のため、貧困、疫病、飢饉等に苦しむ人が宗教にすがる時代は終焉を迎えたのではないだろうか。しかし心の問題を始め、科学や医療、学問でも解決できない問題があることは事実で、今の宗教は、近代化以前の昔とはちがった形、違った役目を負っているのではないだろうか。今、宗教は心の問題、心のケアの面が問われている。人生80年の時代に入って、人間はいかに生きるのか。不治の病になっていかに生きるのか。そういうことにスポットが当たっている。

15時間唱題をやって病気を治すとか、血脈が切れたから地獄に堕ちるとか、そんなことを人に問うのが宗教の役回りでは無かろう。「宗教とは何か」を話し始めると、宗教学者の数だけ意見が分かれるとも言われる。しかしだから宗教学者の意見が間違っているというものでもなかろう。今一度、多くの人にお考えいただきたい問題と言えると思います。

小泉久遠寺6客殿
 

(日蓮正宗に入っていない冨士門流寺院)