□幕府公認宗派になり宗教論争・自讃毀他が禁止されたが折伏を放棄していなかった大石寺門流

 

江戸時代初期の1632(寛永9)年に大石寺法主に登座した大石寺17世日精は、京都要法寺出身ではあったが、「日蓮の全ての教えの極説は大石寺の『戒壇の大本尊』」「日蓮の正しい教えが日興-日目-日道と続く大石寺の法脈以外には伝わらなかった」とする大石寺門流独自の教義を広め、徳川幕府が江戸に拠点を置いて、政治の中心が京都から江戸に移ると見るや、江戸に常在寺、法詔寺を建立。当時は天台宗だった常泉寺一門を大石寺門流に改宗させた。大石寺17世日精は、大石寺法主隠退後も江戸・常在寺に居住して、説法を続けていた。この常在寺の大石寺17世日精を聞いていた加賀藩士が後に「金沢法難」を惹起し、さらに大石寺17世日精の説法を聴聞していた館林藩士・市之進という者が薫発されて大石寺門流の僧侶として出家。後に大石寺26世日寛になる。

他方、徳川幕府は安土宗論、方広寺千僧供養、大阪対論以来、宗教統制を強化。1615(元和1)年、徳川幕府は武家諸法度、禁中並びに公家諸法度と同時に、諸宗諸本山諸法度を発布。幕府や全国大名が公認した宗派には、将軍の朱印状で認められた朱印地や大名の黒印状で認められた寺領が与えられた。大石寺17世日精は、徳川家康の養女・敬台院日詔の養子になるなど、さまざまな工作を行い、1641(寛永18)年、江戸幕府三代将軍・徳川家光から朱印状が大石寺に下賜され、晴れて大石寺門流が徳川幕府公認の宗派となる。

1627(寛永4)年の紫衣事件、1637(寛永14)年の島原の乱等により、徳川幕府は年々、宗教統制を強化。1665(寛文5)年、徳川幕府は諸宗寺院法度を発令。これらの諸法度により、各仏教宗派に本山・末寺の関係をつくり、武家から庶民に至るまで全て、徳川幕府公認宗派の檀家として登録する宗門改帳を作成。一戸毎に宗旨と檀那寺、戸主と家族らの名前、続柄、年齢などが記載され、寺請制度がほぼ完成。徳川幕府公認宗派は宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)が禁止されたばかりか、僧侶の街中にての法談、念仏講、題目講等の集会まで禁止され、実質的に折伏・布教が禁止された。そして徳川幕府から禁止されたキリスト教と日蓮宗の「不受不施派」は徹底的に弾圧された。

徳川幕府は1627(寛文4)年、一宗の者が他宗を誹謗することは自讃毀他であり、社会秩序を乱すとして日蓮宗各派に他宗派との論争を禁止する法度を発令している。かくして仏教各宗派は布教活動をほとんど停止せざるを得なくなり、僧侶を養成する学校である「檀林」を設立し、僧侶の主眼は布教よりも学問修学になっていった。大石寺門流も、徳川幕府公認宗派となり、徳川幕藩体制の寺請制度の中に組み込まれ、「細草檀林」を設立して学問修学にいそしむ体制作りが行われ、宗教論争や自讃毀他が禁止されたはずだったのだが、しかし大石寺門流は、こうした時代にあっても、折伏・布教を放棄しておらず、その過激折伏体質は「法難」を呼び起こしている。

江戸時代に入ってからも大石寺門流は、京都要法寺門流と通用(交流)を行っていたが、曼荼羅本尊・日蓮本仏義・薄墨色衣白袈裟・法華経一部読誦否定の大石寺と、釈迦仏像本尊・釈迦本仏義・黒衣・法華経一部読誦の要法寺に論争が巻き起こる。大石寺22世日俊、大石寺23世日啓は京都要法寺を「造仏堕地獄・読誦無間地獄」と攻撃。これに要法寺が反撃。大石寺と京都要法寺は通用(交流)を断絶する。しかし大石寺26世日寛が激しく京都要法寺の本尊・教義を攻撃。1795(寛政7)年、京都要法寺が釈迦仏像本尊・釈迦本仏義・黒衣・法華経一部読誦を廃止して、曼荼羅本尊・日蓮本仏義・薄墨色衣白袈裟・法華経方便・寿量品読誦の大石寺の化儀に改定する。これにより京都要法寺と日蓮宗15本山の間に紛争が起こり、京都要法寺一山僧侶全員が逮捕・投獄されるという、いわゆる「寛政の法難」が起こる。

 

 

□折伏禁制の江戸時代に金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等で過激折伏事件を起こした大石寺門流

 

1680(延宝8)年から約200年の長きにわたって、加賀藩の大石寺信徒の過激折伏・布教活動が起こした「金沢法難」という過激折伏事件がある。加賀藩とは、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした三ヶ国120万石に及ぶ所領を獲得した藩。のちに第三代利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、1025千石となる。藩主の前田氏は外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。加賀藩領内には、江戸時代に大石寺門流の末寺はなく、加賀藩に大石寺門流の信仰が流布することは「宗門改」の禁制に触れるという名目で、大石寺信徒の折伏布教のみならず、信仰そのものまでもが禁止され、弾圧された。これは徳川幕府が倒れる明治維新までつづき、大石寺信仰の禁制が完全に解けた1879(明治12)年、金沢に日蓮正宗寺院・妙喜寺が建立されている。

18世紀の半ばころ、大石寺門流の僧侶・覚林房日如の仙台地方での折伏・布教活動により、覚林房日如が逮捕・入牢・奥州長渡への流罪、覚林房日如に教化された信徒は追放、閉門等の刑に処せられた。特に覚林房日如の流罪赦免まで27年にもわたった。この事件を日蓮正宗では「仙台法難」と呼んでいる。さらに19世紀初頭のころ、大石寺信徒の折伏が端を発して、信徒数名が逮捕・入牢されている。この過激折伏事件を日蓮正宗では「洞ノ口法難」と呼んでいる。

1822(文政5)年、江戸・目黒に住む大石寺信徒・永瀬清十郎が尾張国(今の愛知県)名古屋の地で、折伏・布教活動を開始。永瀬清十郎は、他宗派と「尾張問答」を起こすなど、過激な折伏・布教活動を展開。永瀬清十郎をはじめ、永瀬清十郎に教化された大石寺信徒が、「天保」「嘉永」「安政」の時代、逮捕・取り調べを受けている。この尾張の地にも明治維新の後の1879(明治12)年、日蓮正宗寺院・興道寺が建立されて事件が終息。この過激折伏事件を日蓮正宗では「尾張法難」と呼んでいる。

江戸時代末期の1784(天明4)年、信州伊那(今の長野県伊那市)で、大石寺信徒・城倉茂左衛門が曹洞宗、日蓮宗寺院の檀家を大石寺に改宗せしめるという、過激な折伏活動を展開。城倉茂左衛門ら大石寺信徒数人が逮捕・投獄され、追放、欠所(財産没収)、所払い等に処せられた。この事件も最終的には、1874(明治7)年に伊那に日蓮正宗寺院・信盛寺が建立されて終息。この過激折伏事件を日蓮正宗では「伊那法難」と呼んでいる。

1844(弘化1)年、仙台の日蓮正宗寺院・仏眼寺の僧侶・玄妙房日成と大石寺信徒・阿部喜七・阿部豊作が過激な折伏活動を奥州・八戸(今の青森県八戸市)で展開。これにより折伏活動を行っていた僧俗が逮捕・入牢となり、玄妙房日成と阿部喜七は領外追放の刑になった。これも八戸に日蓮正宗寺院・玄中寺が建立されて終息。この過激折伏事件を日蓮正宗では「八戸法難」と呼んでいる。

1864(弘化3)年、大石寺近隣の猫沢村で、大石寺門流僧俗と日蓮宗僧俗の論争が、自讃毀他の禁令に触れるとして、大石寺僧侶数名が江戸追放、押し込み、大石寺信徒数名が、奉行所から所払い、科料、おしかり等の刑罰を受けた。この過激折伏事件を日蓮正宗では「猫沢法難」と呼んでいる。

このように、大石寺は日蓮宗「不受不施派」のように幕府禁制の宗派にはならなかったものの、宗教論争や自讃毀他禁止、僧侶の街中にての法談、念仏講、題目講等集会禁止の江戸時代に、金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等の全国各地で過激折伏事件を起こしている。徳川幕府の禁制に平然と反して過激な折伏を展開するという過激体質を、あの江戸時代においてすでに持っていたのであり、大石寺門流は幕府公認宗派になり宗教論争・自讃毀他が禁止されたが、過激折伏を決して放棄していなかったのである。

金沢法難1
 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p278279「金沢(法難))

金沢法難2


金沢法難3
 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p282285「金沢(法難))