□寺社奉行に同門の要法寺を「要法寺日尊上洛後の事跡相知れず」と冷たく突き放した大石寺

 

京都要法寺は、徳川幕府・寺社奉行の厳しい詮議・取り調べの中で、1797(寛政9)年、自山の立場について、「大石寺開山日興上人の弟子つづき」、つまり要法寺は大石寺と同門であると主張。徳川幕府・寺社奉行は大石寺に、その当否の照会をした。これについて、大石寺は寺社奉行に対して、概略、以下のような答申をした。

「京都要法寺の開祖・日尊は大石寺開祖日興の弟子ではあるが、大石寺三祖日目の京都天奏の旅に随伴して京都に上って以降の詳細は不明である。」

「京都要法寺の開祖・日尊の血脈相承、要法寺歴代系図についても詳細き不明」

「日尊門流の上行院・住本寺が一寺になり要法寺と改称したことは、大石寺は詳細は知らない」

「日尊門流の上行院・住本寺の開基や詳細について、大石寺は詳細は知らない」

「大石寺では、日蓮十界勧請の曼荼羅と日蓮を尊信し、十界勧請の曼荼羅と日蓮木像を本尊としている。余の仏像等は祀っていない。宝蔵には日蓮直書の曼荼羅を祀り代々法主の御朱印、日蓮以来の宝物を安置している。客殿は中央に十界勧請の曼荼羅、右に日蓮木像、左に日興の木像を安置している。朝夕の勤行では、法華経方便品寿量品の読誦と唱題行を専らとする」

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p357360「大石寺より江戸寺社奉行へ答申」)

大石寺より江戸寺社奉行へ答申1


大石寺より江戸寺社奉行へ答申2


大石寺より江戸寺社奉行へ答申3
 

大石寺は、徳川幕府寺社奉行に対して、京都要法寺を擁護することを全くせず、本当は大石寺と要法寺は同じ日興門流(富士門流)であるにもかかわらず、寺社奉行に対しては、大石寺と要法寺は同門であるとは主張せず、「委細の旨は存知申さず候」「要法寺日尊上洛後の事跡相知れず」などと言って、冷たく突き放したのである。この大石寺の態度に、京都要法寺の門徒が怒らないはずがない。大正から昭和時代前半のころの京都要法寺門流(日蓮本宗)の歴史学者(僧侶)・富谷日震氏は著書「本宗史綱」(下巻)で、「大石寺のなせる信義無視の答申」と題して

「これに対する大石寺の応答は毫も核心に触れず、所答甚だ不得要領を極む。就中奇怪なるは、往古伝灯九代の法器を送り、一百十有余年両山緊密の連繋厳然たりにし拘わらず、『要法寺日尊上洛後の事跡相知れず』等と、事実無視の答弁に及べり。元来、永年恩顧の旧誼を顧慮せば同門の憂いを別かち、奮然蹶起匡救善所の徳性を発揮すべきに、事態を冷眼看過殆ど対岸の火災視し、吾不関焉と冷々淡々他の休慼敢て顧みず、唯だ当面を糊塗するに急にして漫然不信不義の態度に出でしものは、蓋し微問の事実を明確ならしむるにおいては、却て累禍の自山に及ばんを杞憂する怯懦心の然らしめたるものか」

「同門骨肉の信義なるもの焉くにか在らん。陰険悪辣の振舞宛然禽獣の類すと謂つへきなり」

(富谷日震氏の著書「本宗史綱」下巻p824825)

大石寺のなせる信義無視の答申

と口を極めて大石寺の態度を非難している。

富谷日震
 

(「本宗史綱」に載っている富谷日震氏)

 

 

□不受不施派同様の取り潰しを恐れ加賀藩の大石寺信徒や要法寺僧俗を見殺しにした大石寺2

 

ではなぜ、大石寺は、過激折伏事件を起こして逮捕・投獄・流罪になった僧侶・信徒、大石寺に決死の登山参詣をした加賀藩の「隠れ大石寺信徒」、「寛政の法難」で一山の僧侶が投獄された京都要法寺を冷たく見捨てたのか。それは大石寺が自らの保身に汲々としていたからである。

徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍による不受不施派弾圧は、大石寺を含む日蓮を宗祖とする全ての門流を震撼させる大事件であった。大石寺をはじめとする富士門流は、宗外からの供養については「国主は受・庶民は不受」とし、辛うじて身延山久遠寺の「受不施」に同調したが、がしかし、まかり間違えば、大石寺とて不受不施派同様に、幕府から弾圧されかねない危険性が充分にあった。大石寺も不受不施派のように禁圧されてしまえば、法主以下、僧侶は流罪、寺院は取りつぶし、ないしは他宗派に改宗である。こういった徳川幕府草創期・家康・秀忠・家光の時代における「武断政治」により、幕府の命にしたがわない不受不施派が、徹底的に弾圧された。こういった政治情勢・宗教情勢により大石寺門流は、なんとしても徳川幕府公認の宗派として認められるという必要性に迫られていた。そもそも20世紀半ばの日本国憲法施行以前、特に徳川幕府の時代は、現代のような信教の自由が保障された世ではなく、徳川幕府公認の宗派にならなければ、布教はおろか、寺の存在・生存そのものが許されなかった時代である。これは何も寺院、宗派、神社のみならず、外様大名から親藩・譜代大名・旗本・御家人まで全てがそうであった。

徳川幕府は、強大な権力・軍事力に物を言わせて、旧主家の豊臣家や福島家・加藤家・堀尾家・蒲生家・生駒家といった豊臣色の濃い外様大名、松平忠輝・徳川忠長ら徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰と権威拡大のために取り潰しになった。草創期の家康・秀忠・家光の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられている。

大名ならずとも寺院、宗派が取りつぶしになれば、それは失業である。徳川時代の失業というのは、現代の失業とは全く違う。失業保険もハローワークもあるはずがない。徳川時代の「とりつぶし」とは、それこそ「死」を覚悟しなくてはならないものだった。ましてや不受不施派のように禁圧されてしまえば、死罪・流罪されてしまう恐れさえあった。

大石寺は1637(寛永14)年、大石寺17世日精の代に敬台院の推挙により、公儀の年賀に乗輿を免許され、1641(寛永18)628日、徳川幕府三代将軍・家光より大石寺に66石の所領の朱印状が下賜され、大石寺門流は、徳川幕府公認の宗派となることに成功する。

しかし徳川幕府は、大石寺を含む日蓮宗各派に対して「隠れ不受不施派なのではないか」という疑惑の目で見ていた。実際に、徳川幕府のよる「不受不施派」禁制以降、関東地方において「隠れ不受不施派」が摘発されている。徳川幕府は、宗派を公認した後も、方広寺千僧供養に類するような「供養」をして、「不受不施派」かどうかを見極める「踏み絵」を敷いている。大石寺に対するその一例が、1712(正徳2)年の幕府による大石寺三門供養である。大石寺がもしこれを拒めば、「不受不施派」として、大石寺も取りつぶされていたわけである。

大石寺門流が金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等での過激折伏事件で逮捕・投獄された僧侶・信徒に対する取り調べ・詮議で、「不受不施派の一派ではないか」と疑われながら、大石寺が弾圧を免れたのは、1637(寛永14)年、敬台院の推挙により、公儀の年賀に乗輿を免許され、1641(寛永18)628日、大石寺門流が徳川幕府公認の宗派となっていたからである。したがってこれは、大石寺としては、何としても死守しなければならない生命線であったわけで、これにより大石寺は、過激折伏事件を起こして逮捕・投獄・流罪になった僧侶・信徒、大石寺に決死の登山参詣をした加賀藩の「隠れ大石寺信徒」、「寛政の法難」で一山の僧侶が投獄された京都要法寺を冷淡にも見殺しにしたのである。しかしこの大石寺の態度は、富谷日震氏が言うように、まさに「陰険悪辣の振舞宛然禽獣の類す」るものと言えよう。

三門2
 

(現在の大石寺三門)