国際カルト宗教対策委員会・公式ブログ

正式名「国際カルト宗教対策委員会・International Committee AgainsT Cult」略称名「ICAT-CULTアイキャットカルト・ICATアイキャット」。日本のみならず世界中からカルト宗教被害を根絶・絶滅させることが究極の目的。伝統仏教の仮面をかぶり、国際人権規約(条約)違反の人権侵害を行い、信教の自由から逸脱した専横活動を行い、一般国民の信教の自由を踏みにじる弾圧を行うカルト宗教を規制する新立法・新条約制定を目指します。日蓮正宗、創価学会、顕正会をカルト宗教に指定して司法監視せよ。反日蓮正宗系活動はカルト宗教の専横・独裁・専政・弾圧に抵抗する現代の自由民権運動である。 (背景写真は大石寺開創七百年慶讃大法要・本会が終了後、饗応の席で歓談する池田大作と大石寺67世阿部日顕・1990年10月14日付け聖教新聞より)

「反日蓮正宗系カルト」活動家は日蓮正宗内部を徹底研究すべきだ

「国際カルト宗教対策委員会」と「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」(略名・アンチ日蓮正宗)「仏教宗学研究会」は表裏一体の同体異名。
「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」
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明治・大正・昭和初期に77ヶ寺の新寺院・教会所を建立し檀信徒を56%も増加させた日蓮正宗

□折伏布教解禁の明治時代に江戸時代よりも過激折伏体質をエスカレートさせた大石寺門流2

 

1868(明治1)年の明治維新以降、過激折伏体質をエスカレートしていった大石寺門流だが、具体的にどれだけの布教実績を挙げていたのか。明治維新以降から1945(昭和20)年までの大石寺門流と他宗派・他門流との問答・宗派論争(日蓮正宗で言う“法論”)は以下の通りである。

1875(明治8)1022日、大石寺末寺・大阪蓮華寺講頭・森村平治等と京都要法寺末寺・天満蓮興寺・堺住本寺との間で問答

1875(明治8)1216日、大石寺末寺・堺本伝寺本立講と日蓮宗本迹一致門流妙見朋友講との間で問答

1876(明治9)9月、大石寺末寺・京都住本寺信徒・加藤廉三と日蓮宗妙法寺日庸が問答

1878(明治11)年、大石寺55世下山日布と北山本門寺34代玉野日志が問答

1879(明治12)年、大石寺52世鈴木日霑と北山本門寺34代玉野日志が問答(霑志問答)

1882(明治15)年、大石寺本門講と横浜蓮華会(国柱会)が問答(横浜問答)

1883(明治16)年、大石寺末寺・大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が日蓮宗八品派(日隆門流)と問答

1885(明治18)412日、大石寺末寺・大阪蓮華寺信徒・荒木清勇が日蓮宗信徒・畠山弥兵衛と問答

1885(明治18)4月、大石寺門流僧侶とキリスト教徒が神奈川県小田原で公開法論

1887(明治20)4月、大石寺尼僧・佐野広謙尼が日蓮宗・京都頂妙寺僧侶と問答

1890(明治23)11月、大石寺53世日盛と日蓮宗僧侶・清水梁山が神奈川県横須賀で問答

1892(明治25)年、大石寺56世・大石日応法主と京都要法寺42祖・驥尾日守が問答

1893(明治26)24日、大石寺末寺・京都住本寺信徒・加藤道栄と京都要法寺塔中真如院住職・矢田志玄が問答

1901(明治34)31日、大石寺僧侶・阿部日正(後の大石寺57世法主)が顕本法華宗僧侶・本多日生と公開問答

1926(大正15)5月、大石寺末寺・北海道深川宝竜寺住職・渋田慈旭(日宇)と本門法華宗が問答(札幌法論)

1928(昭和3)1月、大石寺信徒・神戸独一本門講講頭・増田耕一と日蓮宗・日蓮主義宣伝会が問答

1929(昭和4)11月、大石寺信徒・神戸独一本門講講頭・増田耕一と日蓮宗・日本山妙法寺貫首・藤井行勝(日達)が兵庫県神戸市で問答

1900(明治33)年から大石寺と京都要法寺で、福島県・会津実成寺、妙福寺、宮城県仙台・仏眼寺、日浄寺の末寺寺跡問題が起こり、1943(昭和18)年に最終的に大石寺(日蓮正宗)に帰属。

(富士学林発行「日蓮正宗富士年表」より)

 

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折伏布教解禁の明治時代に江戸時代よりもエスカレートしていった大石寺門流の過激折伏体質1

□明治政府の「一宗派一管長」等の強権的な現実無視の宗教統制政策に反発した大石寺門流

 

1868(明治1)年の明治維新によって、265年つづいた徳川幕府の治世は終わり、明治天皇を元首とする新政府が成立。徳川幕府の宗教政策はことごとく覆され、明治新政府は新しい宗教政策を行った。1868(明治1)328日、明治新政府が神仏分離令を発布。1871(明治4)45日、新しい戸籍法が発布され、宗門人別帳寺請制度が廃止された。そして同年514日、神社をもって国家の祭祀とすることを発布。実質的に神道が国教に近い存在になった。1872(明治5)年、明治政府が僧侶の肉食妻帯蓄髪を解禁し、法要以外の僧侶の俗服着用を許可。1873(明治6)年には、徳川幕府では禁制とされ弾圧されつづけていたキリスト教が解禁。1876(明治9)年、同じく徳川幕府では禁制とされ弾圧されつづけていた日蓮宗「不受不施派」の再興が許可された。

この明治維新によって大石寺門流の過激折伏体質はどうなっていったのか、ということになるが、明治時代に入って以降、大石寺門流の過激折伏体質は、江戸時代よりもさらにエスカレートしていったのである。それはなぜか。

まず第一に、宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)、僧侶の法談、念仏講、題目講等々、布教活動を徹底的に禁制にした徳川幕府が倒れたこと。これにより江戸時代に大石寺信徒が過激折伏事件を起こした金沢、尾張、伊那、八戸等で大石寺門流(日蓮正宗)の新寺院が建立され、公然と宗教論争や折伏布教活動を行うことが可能になったこと。

第二に、1868(明治1)328日に明治新政府が発布した神仏分離令によって、日本全国に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動。廃仏は仏を廃し(破壊)し、毀釈は、釈迦の教えを壊(毀)すという意味)の嵐が全国に巻き起こり、全国各地の仏教寺院が大打撃を蒙ったのだが、この中にあって静岡県の富士山麓の大石寺は、割と廃仏毀釈による被害が少なかったこと。

第三に、明治政府が全国の仏教各宗派に対して、現実を全く無視した「一宗一管長制」という、かなり強圧的な宗教政策を行い、これが仏教各宗派の猛反発を買ったこと。これはどういうことかというと、明治維新以前から、例えば臨済宗は建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、大徳寺派、妙心寺派、天龍寺派、相国寺派等に分かれている。浄土宗は鎮西派、西山派に分かれ、浄土真宗は大谷派(東本願寺)、本願寺派(西本願寺)、仏光寺派、興正派、木辺派、高田派、出雲路派、誠照寺派、三門徒派、山元派に分かれている。天台宗は天台宗山門派(比叡山延暦寺)、天台寺門宗(園城寺)、天台真盛宗等に分かれている。真言宗は古義派と新義派に分かれていて、さらに古義派は高野山真言宗、東寺真言宗、真言宗善通寺派、真言宗醍醐派、真言宗御室派、真言宗大覚寺派、真言宗泉涌寺派に分かれている。新義派も真言宗智山派、真言宗豊山派、新義真言宗に分かれている。日蓮宗も本迹一致派と本迹勝劣派に分かれ、さらに一致派は日昭門流、日朗門流、日向門流、日常門流、六条門流、日像門流、不受不施派に分かれ、勝劣派は日什門流、日隆門流、日真門流、日興門流(富士門流)に分かれ、その日興門流も、大石寺門流(日蓮正宗)、日尊門流(要法寺・伊豆実成寺)、日郷門流(保田妙本寺・小泉久遠寺・日向定善寺)、日代門流(西山本門寺)、日妙門流(北山本門寺)、日華門流(富士妙蓮寺)、日仙門流(讃岐本門寺)等に分かれていた。

 

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不受不施派同様の取り潰しを恐れ過激折伏の大石寺信徒や要法寺僧俗を見殺しにした大石寺2

□寺社奉行に同門の要法寺を「要法寺日尊上洛後の事跡相知れず」と冷たく突き放した大石寺

 

京都要法寺は、徳川幕府・寺社奉行の厳しい詮議・取り調べの中で、1797(寛政9)年、自山の立場について、「大石寺開山日興上人の弟子つづき」、つまり要法寺は大石寺と同門であると主張。徳川幕府・寺社奉行は大石寺に、その当否の照会をした。これについて、大石寺は寺社奉行に対して、概略、以下のような答申をした。

「京都要法寺の開祖・日尊は大石寺開祖日興の弟子ではあるが、大石寺三祖日目の京都天奏の旅に随伴して京都に上って以降の詳細は不明である。」

「京都要法寺の開祖・日尊の血脈相承、要法寺歴代系図についても詳細き不明」

「日尊門流の上行院・住本寺が一寺になり要法寺と改称したことは、大石寺は詳細は知らない」

「日尊門流の上行院・住本寺の開基や詳細について、大石寺は詳細は知らない」

「大石寺では、日蓮十界勧請の曼荼羅と日蓮を尊信し、十界勧請の曼荼羅と日蓮木像を本尊としている。余の仏像等は祀っていない。宝蔵には日蓮直書の曼荼羅を祀り代々法主の御朱印、日蓮以来の宝物を安置している。客殿は中央に十界勧請の曼荼羅、右に日蓮木像、左に日興の木像を安置している。朝夕の勤行では、法華経方便品寿量品の読誦と唱題行を専らとする」

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p357360「大石寺より江戸寺社奉行へ答申」)

大石寺より江戸寺社奉行へ答申1


大石寺より江戸寺社奉行へ答申2


大石寺より江戸寺社奉行へ答申3
 

大石寺は、徳川幕府寺社奉行に対して、京都要法寺を擁護することを全くせず、本当は大石寺と要法寺は同じ日興門流(富士門流)であるにもかかわらず、寺社奉行に対しては、大石寺と要法寺は同門であるとは主張せず、「委細の旨は存知申さず候」「要法寺日尊上洛後の事跡相知れず」などと言って、冷たく突き放したのである。この大石寺の態度に、京都要法寺の門徒が怒らないはずがない。大正から昭和時代前半のころの京都要法寺門流(日蓮本宗)の歴史学者(僧侶)・富谷日震氏は著書「本宗史綱」(下巻)で、「大石寺のなせる信義無視の答申」と題して

「これに対する大石寺の応答は毫も核心に触れず、所答甚だ不得要領を極む。就中奇怪なるは、往古伝灯九代の法器を送り、一百十有余年両山緊密の連繋厳然たりにし拘わらず、『要法寺日尊上洛後の事跡相知れず』等と、事実無視の答弁に及べり。元来、永年恩顧の旧誼を顧慮せば同門の憂いを別かち、奮然蹶起匡救善所の徳性を発揮すべきに、事態を冷眼看過殆ど対岸の火災視し、吾不関焉と冷々淡々他の休慼敢て顧みず、唯だ当面を糊塗するに急にして漫然不信不義の態度に出でしものは、蓋し微問の事実を明確ならしむるにおいては、却て累禍の自山に及ばんを杞憂する怯懦心の然らしめたるものか」

「同門骨肉の信義なるもの焉くにか在らん。陰険悪辣の振舞宛然禽獣の類すと謂つへきなり」

(富谷日震氏の著書「本宗史綱」下巻p824825)

大石寺のなせる信義無視の答申

と口を極めて大石寺の態度を非難している。

富谷日震
 

(「本宗史綱」に載っている富谷日震氏)

 

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不受不施派同様の取り潰しを恐れ過激折伏の大石寺信徒や要法寺僧俗を見殺しにした大石寺1

□大石寺に見殺しにされた金沢・尾張等で過激折伏事件で逮捕・投獄された大石寺僧侶・信徒

 

大石寺門流は、徳川幕府の禁制に平然と反して過激な折伏を展開するという過激体質を、あの江戸時代においてすでに持っていたのであり、大石寺門流は幕府公認宗派になり宗教論争・自讃毀他が禁止されたが、実際は全国各地で過激折伏事件(日蓮正宗で言う“法難”)を引き起こしていた。この大石寺門流の江戸時代の過激折伏事件について、見逃してはならないポイントがある

徳川幕府は1615(元和1)年、徳川幕府は武家諸法度、禁中並びに公家諸法度と同時に、諸宗諸本山諸法度を発布。1665(寛文5)年、徳川幕府は諸宗寺院法度を発令。これらの諸法度により、各仏教宗派に本山・末寺の関係をつくり、武家から庶民に至るまで全て、徳川幕府公認宗派の檀家として登録する宗門改帳を作成。一戸毎に宗旨と檀那寺、戸主と家族らの名前、続柄、年齢などが記載され、寺請制度がほぼ完成。徳川幕府公認宗派は宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)が禁止、僧侶の街中にての法談、念仏講、題目講等の集会も禁止、実質的に折伏・布教が禁止された。そして徳川幕府から禁止されたキリスト教と日蓮宗の「不受不施派」は徹底的に弾圧された。こんな時代に、過激折伏を展開すれば、折伏・布教活動を行った僧侶や信徒は逮捕・投獄され、大石寺に幕府・寺社奉行の詮議が入り、大石寺門流そのものが、日蓮宗「不受不施派」と同様に弾圧され、大石寺そのものが取りつぶしになる可能性すら出てくる。では、大石寺門流は、江戸時代にこれだけの宗教論争や過激折伏事件を引き起こしておいて、本山の大石寺、トップの大石寺法主が過激折伏の僧侶・信徒の逮捕・投獄を防止できる政治力を持っていたわけでもなく、僧侶・信徒の逮捕・投獄に対抗できる政策を講じていたわけでもない。金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等で過激折伏事件を起こして逮捕・投獄された僧侶・信徒たちは、ことこ゛とく大石寺によって、冷たく見捨てられ、見殺しにされたのである。

こう言うと、日蓮正宗の者は「そんなことはない。1727(享保12)年に日詳上人が加賀藩江戸屋敷に加賀藩領内に末寺建立を出願された」と言うが、これは詭弁である。江戸時代においては、徳川幕府は全ての宗派に新寺建立を禁止しており、大石寺28世日詳が加賀藩江戸屋敷に新寺建立を出願したからとて、絶対に認められるわけがない。1727(享保12)35日に大石寺28世日詳が提出した新末寺建立の出願は、その2日後に即刻却下の憂き目にあっている。

大石寺より前田領国内末寺創建願1


大石寺より前田領国内末寺創建願2
 

(大石寺59世堀日亨編纂『富士宗学要集』9p291293「大石寺より前田家領国内に末寺創建の願」)

大石寺が冷たく見殺しにしたのは、過激折伏事件を起こして逮捕・投獄された僧侶・信徒たちだけではない。江戸時代の加賀藩では、下級武士とその家族たちに、加賀藩では禁制になっていた大石寺の信仰をする「隠れ大石寺信者」が数多くいた。その「隠れ大石寺信者」の下級武士たちが、加賀藩主の参勤交代の行列が吉原宿(今の静岡県富士市吉原)に宿泊したとき、“抜け詣り”を決行している。“抜け詣り”とは、「当流法難史」によれば、陣屋が寝静まった後に、「隠れ大石寺信者」の加賀藩武士たちが、大石寺までの約15キロの道を走り、大石寺宝蔵前に到着すると、宝蔵の石畳に端座して唱題。そして白々と夜が明け始めたころ、藩主一行が目覚める前に陣屋に帰るべく、大石寺から吉原宿へ駆け戻ったという。(日蓮正宗理境坊妙観講発行「当流法難史」より)

 

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折伏禁制の江戸時代に金沢・尾張・仙台・伊那・八戸等で過激折伏事件を起こした大石寺門流

□幕府公認宗派になり宗教論争・自讃毀他が禁止されたが折伏を放棄していなかった大石寺門流

 

江戸時代初期の1632(寛永9)年に大石寺法主に登座した大石寺17世日精は、京都要法寺出身ではあったが、「日蓮の全ての教えの極説は大石寺の『戒壇の大本尊』」「日蓮の正しい教えが日興-日目-日道と続く大石寺の法脈以外には伝わらなかった」とする大石寺門流独自の教義を広め、徳川幕府が江戸に拠点を置いて、政治の中心が京都から江戸に移ると見るや、江戸に常在寺、法詔寺を建立。当時は天台宗だった常泉寺一門を大石寺門流に改宗させた。大石寺17世日精は、大石寺法主隠退後も江戸・常在寺に居住して、説法を続けていた。この常在寺の大石寺17世日精を聞いていた加賀藩士が後に「金沢法難」を惹起し、さらに大石寺17世日精の説法を聴聞していた館林藩士・市之進という者が薫発されて大石寺門流の僧侶として出家。後に大石寺26世日寛になる。

他方、徳川幕府は安土宗論、方広寺千僧供養、大阪対論以来、宗教統制を強化。1615(元和1)年、徳川幕府は武家諸法度、禁中並びに公家諸法度と同時に、諸宗諸本山諸法度を発布。幕府や全国大名が公認した宗派には、将軍の朱印状で認められた朱印地や大名の黒印状で認められた寺領が与えられた。大石寺17世日精は、徳川家康の養女・敬台院日詔の養子になるなど、さまざまな工作を行い、1641(寛永18)年、江戸幕府三代将軍・徳川家光から朱印状が大石寺に下賜され、晴れて大石寺門流が徳川幕府公認の宗派となる。

1627(寛永4)年の紫衣事件、1637(寛永14)年の島原の乱等により、徳川幕府は年々、宗教統制を強化。1665(寛文5)年、徳川幕府は諸宗寺院法度を発令。これらの諸法度により、各仏教宗派に本山・末寺の関係をつくり、武家から庶民に至るまで全て、徳川幕府公認宗派の檀家として登録する宗門改帳を作成。一戸毎に宗旨と檀那寺、戸主と家族らの名前、続柄、年齢などが記載され、寺請制度がほぼ完成。徳川幕府公認宗派は宗教論争や自讃毀他(じさんきた・自宗を讃めたたえ他宗を誹謗すること)が禁止されたばかりか、僧侶の街中にての法談、念仏講、題目講等の集会まで禁止され、実質的に折伏・布教が禁止された。そして徳川幕府から禁止されたキリスト教と日蓮宗の「不受不施派」は徹底的に弾圧された。

徳川幕府は1627(寛文4)年、一宗の者が他宗を誹謗することは自讃毀他であり、社会秩序を乱すとして日蓮宗各派に他宗派との論争を禁止する法度を発令している。かくして仏教各宗派は布教活動をほとんど停止せざるを得なくなり、僧侶を養成する学校である「檀林」を設立し、僧侶の主眼は布教よりも学問修学になっていった。大石寺門流も、徳川幕府公認宗派となり、徳川幕藩体制の寺請制度の中に組み込まれ、「細草檀林」を設立して学問修学にいそしむ体制作りが行われ、宗教論争や自讃毀他が禁止されたはずだったのだが、しかし大石寺門流は、こうした時代にあっても、折伏・布教を放棄しておらず、その過激折伏体質は「法難」を呼び起こしている。

江戸時代に入ってからも大石寺門流は、京都要法寺門流と通用(交流)を行っていたが、曼荼羅本尊・日蓮本仏義・薄墨色衣白袈裟・法華経一部読誦否定の大石寺と、釈迦仏像本尊・釈迦本仏義・黒衣・法華経一部読誦の要法寺に論争が巻き起こる。大石寺22世日俊、大石寺23世日啓は京都要法寺を「造仏堕地獄・読誦無間地獄」と攻撃。これに要法寺が反撃。大石寺と京都要法寺は通用(交流)を断絶する。しかし大石寺26世日寛が激しく京都要法寺の本尊・教義を攻撃。1795(寛政7)年、京都要法寺が釈迦仏像本尊・釈迦本仏義・黒衣・法華経一部読誦を廃止して、曼荼羅本尊・日蓮本仏義・薄墨色衣白袈裟・法華経方便・寿量品読誦の大石寺の化儀に改定する。これにより京都要法寺と日蓮宗15本山の間に紛争が起こり、京都要法寺一山僧侶全員が逮捕・投獄されるという、いわゆる「寛政の法難」が起こる。

 

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